「エンジニアになりたての頃は、明確な目標や大きな野心は特に無かったんですよ」。若き日々を振り返るのは、2008年に弱冠32歳で部長に昇格し、現在は取締役と開発事業部部長を兼任するTAKADAだ。前職の企業でエンジニアデビューしたのは、20歳の頃。「モノを作るのが好きで、開発現場の仲間と“とにかく頑張ろうぜ!”と盛り上がっていました」。若さと初期衝動に突き動かされるように、TAKADAはがむしゃらに働いた。
そんな彼の前向きな姿勢を高く評価したのが、当時の配属部署のマネジャーで、現ウィズ・ワン社長の五十嵐だった。「一緒に独立しないかと声をかけていただいたのが、25歳の頃です。ただ、実は一度断っているんです」。その理由は、同時期に “こんな存在を目指したい”という人物に初めて出会ったからだった。TAKADAが憧れたのは、バイタリティあふれるプロジェクトマネジャーだ。開発メンバーを鼓舞し、チームを束ね、プロジェクトを推進し、仕事をやりきる。その姿勢が「とにかくカッコ良かった」と言う。
そこで、まず考えたのが、そのプロジェクトマネジャーとともに一緒に現場経験を重ね、そのビジネススタイルを間近で学ぶことだった。だが、プロジェクトマネジャーの活躍を目の当たりにするうち、TAKADAの向上心に火がつく。「あの人を追い抜きたい、もっとすごい存在になりたい!」。一段高い目標を叶えるためには、同じ現場では足りない。全く別の環境で、自らの手でプロジェクトをリードし、経験を積み重ねる必要がある。それが、TAKADAがウィズ・ワンという新しいステージへ挑戦するきっかけとなった。
スタートアップの時期というのは、どんな会社も多忙を極めるものだ。2000年、ウィズ・ワンの一員となったTAKADAは以前にも増して、懸命に働いた。複数のプロジェクトを兼任することもあれば、暗礁に乗り上げた現場を立て直すこともあった。それでも、ひたすら向上心を持って仕事に取り組むTAKADAを、会社は惜しみなく評価した。
前職の会社は社員が2000名以上いたが、誕生間もないウィズ・ワンは数十名規模。着実に会社が大きくなる中、ポストも増え、ステップアップの機会は豊富だった。実際、TAKADAは入社2年目に主任へと昇格し、3年目には係長、4年目には課長を任された。「私だけが特別だったわけではありません。同世代の仲間も、成果を挙げたメンバーは同じようにステップアップしていましたから、活躍した分だけキャリアアップ出来るという実感はありましたね」。
ウィズ・ワンでは、個人の実績だけで評価を行わず、クライアントにも“各エンジニアの評価”を伺い、その情報を人事査定に加味している。そのため、現場での活躍が見逃されることはない。「評価面談では、上司にいつもこう言っていました。給与や査定の結果に文句は言いません、ただし、“これだけ頑張った”という自負に合わない評価を受けた時は退職しますと」。これだけはっきりと意志表示をしていたTAKADAが、今もウィズ・ワンで活躍し続けていること。それ自体が、正当な評価制度が継続していることの証明とも言えるだろう。
着実にキャリアアップを重ねるTAKADAだが、決して順風満帆だったわけではない。「現場ではマネジャーやリーダーを任されることが多かったものの、当時の自分はまだまだ。目標としていたプロジェクトマネジャーに比べれば、“あの人を追い抜くなんて”と、笑われるレベルだったと思います」。確実にプロジェクト成功を支える“推進力”を身に付けたい。そこでTAKADAは、技術力よりもまず提案力やマネジメントスキルを優先して磨いていった。しかし、ある次世代型の通信技術の研究開発プロジェクトで、壁にぶつかってしまう。
「クライアントの立場に立ち、丁寧にヒアリングや提案を行う。それ自体は出来ても、知識が足りないばかりに最新技術を突き詰めることができなかった。このままではマズいと気づかされました」。TAKADAは、限られた時間の中でスケジュールを調整し、新たなテクノロジーのカンファレンスや勉強会に積極的に参加。少しずつ知識を積み直し、技術面への自信を取り戻した頃、ある現場を任されることとなった。
プロジェクトは最先端の開発案件で、問われる技術力は非常に高い。さらに、クライアントの要求に応えるべく構築したプログラムが、どうしても正常に作動しない。どこに問題があるのか?TAKADAは磨き直した技術力も駆使して、先頭に立って検証を重ねる。直しては動作を確認し、別の部分を直してはまた動作検証をし、と手間暇を惜しまず原因究明に取り組んだ。「あの仕事は100%、いや100%以上の力を出し切ってプロジェクト成功を目指しました。でも、そういう現場こそ成長に繋がるんです。80%の頑張りで終わる仕事じゃ物足りない」。実際、そのたゆまぬ努力は多くのクライアントからも評価を得た。失敗を次の成功に繋げ、壁を乗り越え続けた結果が、32歳の最年少部長を生んだのだ。
部長昇格前も、その後も、TAKADAが取り組んできたのは「常に目の前の仕事に全力を尽くす」という当たり前の努力だけだ。そしてその積み重ねを経て、彼は今や社員のための環境づくりを担う“取締役”となった。「社員一人ひとりに対して、自分の能力を100%発揮出来る現場を提供していきたい。働き過ぎも休み過ぎも成長には繋がりませんが、“あともう一歩頑張ろう”と全力を尽くせるような、適度な負荷がかかる仕事は、必ずその人を伸ばしてくれますから」。
設立当初と比べれば、今の若手の方が昇格へのハードルは高いかもしれない。しかし、成長に繋がる機会の提供と、的確な評価の精度は格段に高まっているのも事実だ。「人事制度は年々アップデートを繰り返しています。最終的な成果だけでなく、プロジェクトの難しさや、その中でどのような努力をしてきたか?といったプロセスまでキャッチアップ可能な体制が整いました」。あと一歩前へ、もう一段上へ……。その努力を、必ず誰かが見ていてくれる。その信頼感は、モチベーションを維持する支えにもなるだろう。
その上、ウィズ・ワンでは会社を挙げて重要ポストを増やす施策に取り組んでおり、成長のチャンスは今後さらに増えていく。「私自身も、次は“社長になる”ことを目指して、努力を重ねています。これから入社してくれる方々にも、“ウィズ・ワンには成長出来る環境がある”と実感してもらえるはずです。意欲をしっかり汲み取ってくれる会社ですから、失敗を恐れずどんどん手を挙げて前へ進んでもらえたら嬉しいですね」。
高校では、中学までやっていた野球部がなかったこともあり、サッカー部に入部。
学校自体の男女比率が、1:9と男性が少なく、一時期部員数を女子マネージャー数が上回る。
中野にあった、大原情報ビジネス専門学校に進学。
日々、小田原から中野まで、片道2時間半かけて通っていました。おかげさまで、タフさが身についたと思っています。
独立系のシステム開発会社に入社。初めてついた現場のリーダーがウィズ・ワン社長の五十嵐でした。
現場についたばかりでまだぼーっとしていた私は、五十嵐に教わりながらお客様にご挨拶をさせていただいた苦い記憶があります。
五十嵐に声を掛けられ、ウィズ・ワンに入社。当時、今でも尊敬している上司のもとで仕事をしており、即答できず。
ただ、尊敬する上司を超えるには、離れたところで頑張ることも一手と思いなおし、入社を決意。
会社の同世代とよく仕事をし、よく飲んだくれていた時期。ブクブク太る。
結婚もしたし、子供もできたけど、幸せ太りというよりは、飲んで食べていたから太っただけだと思う。そして、妻にはあきれられる。
担当していたプロジェクトで、超高稼働。まさに寝る暇なく働き続け、数カ月でダイエット(約10kg)に成功…。
当時一緒に頑張ったお客様とは、今でも仕事の話ができているし、そういう意味ではよかったのかな?と思う。
部長を拝命。当時最年少で部長(32歳)になりました。
まだ記録は破られていないはず。。。ただ、この記録を破る仲間が現れることを、私はひそかに期待しています。
執行役員 経営推進本部 部長を拝命。これまでの業務との兼任ではあったものの、「経営」という畑の違う業務に戸惑いながら、日々を過ごす。
ただ、この経験もあり、漠然とあった「ウィズ・ワンの社長」になりたいという思いを強くする。同時に、ゴルフを始める。
執行役員 第1システム開発事業部 部長を拝命。営業もシステム開発も両方で見ていたので、戸惑いなし。
休日は、仕事か打ちっぱなし場へ。家族に呆れられる。
社会人歴21年目、厄年に取締役を拝命。
社会人歴も折り返しの1年目。今まで以上に仕事に向き合い、カッコイイパパになるために、日々奮闘しています。